2007年06月26日

自然科学と工学(1)

「どうやってデザインというものにアプローチするのか?」という問題があります。どんなジャンルであっても、物づくりをしようという人はこの壁に一度はぶつかると思います。建築だけではなく機械でもプロダクト製品、家具・・・様々なジャンルで現れてくる問題です。従って、これを自分なりにつかめば、他のジャンルにも応用することができるはずです。

■自然科学について

自然科学は基本的に「〜とは何か?」とか「自然の諸現象の中にどういう原理や法則があるのか?」という問い方をします。例えば「生命とは何か?」とか、「建築とは何か?」とか「空間とは何か?」といった具合です。物事の成り立ちを追求するのが基本的なスタンスとしてあります。

自分なりに勉強して理解してきたことは、こういった問いかけは非常に西洋的な思考だということです。西洋ではこの世は神が創ったという前提があり、神が創った秩序があまねく世界に行き渡っている、という基本コンセプトがあるんだと思います。哲学を始め物理学や天文学などすべては宇宙や世界の秩序を見つけ出していく作業と考えて差し支えないと思います。

もうちょっとわかりやすく書くと・・・

→この世界は神が創った。
→そして人間も神が創った。
→ところで人間には理性がある。
→だからその人間を創った神には当然ぶっちぎりの理性があるだろう。
→そんな理性で宇宙を創造したのなら、当然のごとく世界の隅々まで完璧な秩序に基づいてできているはずだ!

こんな前提があるというのがだんだんわかってきました。

歴史を見ていくと、こういう秩序の発見というのは常に見いだすことができます。美しいと感じる人体をよく観察するとなにやら比例関係があるぞ?・・・これを黄金比とか名付けたわけです。その理論に基づいて彫刻や建築に応用されていきました。
他にもちょっと前にフラクタル理論とかが騒がれました。これは海岸線や山や川の形状が一見ランダムに見えるのに、微細に見ていくと実は秩序があった、ということで西洋的コンセプトの琴線に触れるものだったんだと思います。これは科学が大きな力を得ていてもなお、西洋では神の概念が根底にはあるんだろうな、と想像できます。


ルネサンスまでは宇宙の成り立ちは教会が宗教的に説明していただろうと思います。まだよくわからないことが多い段階では世界の秩序の説明を神に頼っていた所があると思います。
宇宙の中心は地球で、太陽がその周りを回っているという考え方があります。神が大地と人間を創ったのだから、当然地球が中心になるでしょうね。しかも球体ではなく平らだと考えられました。(実はそれ以前から地球は丸いとわかっていたのに宗教的につじつまを合わせるために平らだということにしたという話もあります。)
また、反対に月は完全な球で、月より遠い場所にある天体は不変のものと考えられていました。世間一般の人も当然のようにそれを受け入れていたと思います。しかし、本当は地球が太陽の周りを回っています。天体(宇宙)は絶えず変化し、月も大まかには球であっても表面はぼこぼこしているというのは誰でも知っています。

この天動説と地動説という有名な話は、新しい発見が旧来の概念を崩した、という単純な話ではないと思います。人間が物事を考える基盤が変わりつつあったことを意味しています。「神」という基盤とは異なるところから考えていくわけです。世界の成り立ちを「仮説と実証」を繰り返すというプロセスを経て説明します。そしてそこから法則を見いだすことで普遍性を獲得していくわけです。これが「科学」です。

(科学の中には自然科学、人文科学、社会科学などが含まれていますが、一般的に建築は自然科学の中の工学に分類されています。芸術的側面を含んでいたり社会学や心理学的な側面を含んでいるのではっきりした分類が難しいですが、本稿では建築は自然科学の中で工学に属しているという文脈から進めていきます。)


■デザインするときに現れた問題点

「建築とは何か?」という問いかけは少々漠然としているにしても、住宅なら「住宅とは何か?」とか公共施設で「公共ってなんだろう?」とか考えていくわけです。大学などの課題でもそういう問いかけをされたことが何回もありました。私の中ではこういう思考方法がいつまでも引っかかっていたのでした。

「〜とは何か?」からはじまり「もしかしたらこういうことなのかな?」と仮説を立て、「だったらこういう風に創ってみたらどうなる?」・・・というプロセスがいまいち腑に落ちませんでした。いくつか引っかかっていたのです。

どういうことかというと・・・

・「〜とは何か?」というのは言ってみれば新しく知識を見出そうとする行為です。新しいものを創るために、新しい知識が前提になるなら、都市や住宅といったテーマに関して莫大な予算と手間と時間を割いてリサーチする必要があります。とても個人の手に負えるような代物でもなさそうです。またひとたび設計を始めるやいなや、膨大な情報とともに分析や解釈に没頭しなければならないでしょう。これではとても設計(デザイン)をしているとは言えません。デザインが始まってすらいないわけです。
(別の言い方で表現すると「複雑な系の中でその状況を完全に把握しきるのは不可能」だということです。また、「したがって限られた時間や資源の中で、全てを把握しきった上での最適解を得ることも不可能」となります。)

・こういうデザインの始め方は知識を前提とした作り方とも言えます。まるで音楽理論の知識がないと、歌が歌えないと言われているようなものです。プロのミュージシャンですばらしい演奏をする人でも、楽譜をまったく読むことができない人は結構いるそうです。ですから特別な知識を前提としない作り方も当然ありえるわけです。逆に、もし知識が創造の前提になるなら、頭がよくて知識が豊富な人や、常に大量の新しい情報を吸収し、整理できる人ほど、良い作品が作れることになります。大学教授とか歴史学者が建築を設計していることもありますが、必ず良い物を生み出していると言えるでしょうか?

・仮説と実証という実験的な姿勢でいいんだろうか? 新しいことをしようと思って、様々な人が自由に挑戦することが悪いとは思わないけど、家を建てて欲しいと思った人にしてみればちょっと迷惑な話なんじゃないだろうか?家は何千万円もかかるわけですから。建ててみて初めて実証されるような性質のものでは、お客さんのみならず、創っているこちらも不安です。

・「〜とは何か」から始める別の方法もあります。例えば対象に関わってくる事例をたくさん挙げて要素を分析していくという方法です。その中から面白いもの興味深い物を拾い上げては深めていきます。自分なりに物事の核心を深めていく方法とも言えます。そしてそれを計画の中心に据えて進めていく方法です。この方法はうまくいけばレベルが高いものを創り出せます。このプロセスを純粋にひたすら進めていけばアートなどに適した方法になると思います。・・・が何か面白さや興味深いことを見いだすだけでは足りないような気がしました。それを世に作品として送り出すには、建築が存在する根拠として弱い気がしていたのです。

建築のデザインプロセスは、お客さんと価値を共有しながら進めていかなければなりません。
お客さんの合意が得られなければ成り立たない仕事ですから、自分が単に何かを面白いと思っただけではだめなわけです。価値を共有しながら進めていけるような根拠の提示方法が必要だと思いました。

・しかし、作品の存在根拠や理由を突き詰めていくと、いつしか明確に答えることのできない領域に突入していきます。客観的な説明を意識すればするほど、泥沼にはまっていくことが多かったのです。これはなぜだろうか?といつも不思議でした。


自然科学というフォーマットの上で建築のデザインを進めていくと、いつかこうした壁にぶつかってしまいます。
このアプローチは有効な場合もありますが、デザインしていく上では何かが決定的に足りないのです。

それは何だったのか?




自然科学と工学(2)につづく




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
posted by rio at 02:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/45919494

この記事へのトラックバック